白。
 最初に網膜に飛び込んできたのは白だった。呆けて見続けていた所為か保健室にいるような錯覚に襲われる。
 ややあってから、靄のかかった頭は今の状況を改めて把握しようとあたりを見渡す。そして自分が机に突っ伏していることを理解した。
 理解してからは顔を上げるのも面倒くさくなり、横を向いて初めて、私はそれを見た。
「フランス人形……?」
 私がいたのは木造の教室だった。机だけは清潔感を出そうとして白を基調にしているけど、それが逆に清潔感がクーデターでも起こしたようでミスマッチだった。
 そんな部屋の中で、彼女は隣で本を読んでいた。
 見た目は高校生くらいだろうか。紺のブレザーから出た肌は陶磁器のように白く、その髪は墨を流したような黒髪だった。
 どのくらい彼女を眺めていたのだろう。ふと気付いた時、本を捲る音はすでに無く、果ての無い宇宙のような漆黒の瞳が私を捉えていた。
「……誰?」
 きょとんとした表情を見せた少女は、そのまま小首を三度程傾げる。
 そのままたっぷり一分間は経過しただろうか。仰角三度の傾斜を保ったまま、彼女は口を開いた。
「……うん。おはよ。杏」
「あ、おはよ」
 私の反応のどこかが面白かったのか、少女はクスリと猫のように笑った。
 その笑みに見惚れて流してしまいそうになったが、私は思わず反射的に答えを返してしまっただけなのだ。名前を知られていると言うことは、彼女は私を知っているのだろうか。
 私の記憶には彼女のような存在はまるで残っていない。一度見たなら絶対に忘れない。そう断言できるほどに彼女は印象的なのに。
「でも、もうこんばんわかもだよ。今日はお疲れだね」
 そう言って席を立った彼女につられて席を立つ。窓の外は夕焼けの赤から薄暗い夕闇に染まりつつあった。
 夕闇に臨む彼女の髪の毛は黒と言うより灰色に見えた。その色が、あの死神のことを思い出させる。
 これも、夢なのだろうか。いや、真実、夢だったのだろう。私が死神にあったというのも、二十四歳だというのも。
 でも、だとしたら私はいったい誰なのだろう。私に親しげに話しかける彼女は一体――、
「そいじゃ、帰ろうかね。杏」
 彼女の後を追って教室を出る。彼女の言葉はまるで魔法のように私から思考する力を奪っていく。全部、彼女に委ねてしまいそうになるほどに。
 廊下に出ると、そこは記憶通りの古臭い匂いの残る木造校舎――ではなく、清潔感溢れるコンクリートの白亜の講堂だった。
「ねぇ、ここは、何処なの? 貴方は――誰?」
 睡魔のように襲い来る誘惑に抗って、私は何とか声を絞り出す。
 教室こそ私の知っている場所だった。けれど、そこから一歩出ればそこは見知らぬ空間なのだ。死神のことを憶えていなければ、夢で片付けていたに違いない。
「ここ? ここは狩内学園高等部。さっきの部屋が2−F組。これから一年間、君が通う学校だよ。杏」
 声は僅かに弾み、一生懸命に考えたなぞなぞを解いた子供のようだった。実際、心から喜んでいたのだろうと思う。
 でなければ、彼女の笑顔から欺瞞や悪意など微塵も感じないのはおかしいし、こっちまで嬉しくなったりはしない。本当に、彼女は嬉しかったのだろう。
 今、この時に私――仄邑 杏がいることが。
「改めて自己紹介。私は、御伽 みかん。人呼んで『If』。ハッピーエンドを見るのが好きなだけの極々平凡な少女なのだよ。以後、よろしく」
 差し出された左手、それを躊躇うことなく握る。こんなことは馬鹿げてるとは思う。でも、だからこそ、私はそれを信じてみたい。
 もしも、これが夢じゃなく、本当に現実だったとしたら、私はもう一度だけチャンスを与えられたのだから。
「本当、懐かしい空気。やっぱし疲れて――」
 不意に、違和感を感じて教室を振り返る。
 でも、そこに変なところは見つけられなかった。ただ、これからお世話になるだろう教室があるだけだった。
「2−E、か。二度目の高校生だけど、まぁ、何とかなるっしょ」
 その時の私は何の疑問を感じる事無く、Ifこと御伽 みかんと共にそこを後にした。
 それが、私にとって長くて短い、『Ifの物語』の始まりだった。



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